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あるアメリカ人宣教師との出会い
平 松 金 吾
人の運命を決定的に左右するような人生の出会いというものは、単にフィクションの世界ばかりではなくて、現実にもよくあることである。私の生きてきた過去を振り返ってみても大きな影響を受けた人はかなりいる。

今日はその中でも特に、ジョン・ムレット神父という、アメリカ人宣教師と私の巡り逢いについて書いてみたい。今日の私は、彼との巡り逢いがなければ全く違った生き方をしていただろうと考えられるからである。

終戦の直後の昭和21年頃、私は同志社大学の学生だった。しかし、当時は勉強するどころか食料難のために自分の命を維持していくことで、精一杯の時代だった。栄養不足と無理がたたって私は喀血をし、長い療養生活をしなければならなくなった。

大学を中退し療養所に入った私は、早速人工気胸という治療を受けた。当時は満足な医療設備も薬もなく、私の受けた治療以外にはただ安静にして寝ている事だけが恢復への近道であった。療養生活というものは、病気との根気くらべであり「忍耐」の二字に尽きる、闘病生活について語ることは今日の私の目的ではないから、入院後の一喜一憂、病気の紆余曲折した経過については詳しく触れないでおくが、病気のわりには経過が思わしくなく長い年月を療養所で過ごさざるを得なかった。

私の入院した頃は毎日数人の人が医者のほどこす術もなく死んでいった。ある人は神を賛美しその助けを乞い求めながら、ある人は神をののしり呪いながら……。

やがて自分も同じ運命をたどるのでは?という危惧におびえながら私は心の安らぎを求めて、宗教や哲学の書物を手当たり次第に読んでみた。

しかしこうした努力も、人間の死、肉体の消滅、とはどういう事なのかという私の素朴な疑問に決定的な解答を与えてはくれなかった。病状の好転とともに、こうした形而上学的な問いを発し続けてきた私の心はもっと実用的な英語の勉強に関心が移っていった。それからというものは、ラジオ放送の英語番組を聴いたり、英語・英文学に関する本を読んで退屈で無味乾燥な毎日に潤いを与える努力をしたものだった。病気は一進一退を繰り返しながら、昭和30年春にやっと社会復帰ができるようになった。

しかし退院をすれば生活の問題が私の肩に重くのしかかって来ることがハッキリしていたので、私はどうしたら良いか悩んでいた。丁度そんな時に一人のアメリカ人宣教師が療養所を訪ねてきて、アフター・ケア施設が学生寮内にできたので、身体の弱い学生を2・3人世話したいという申し出が療養所の所長にあった。退院を目前に控え今後の生活のことに不安を感じていた私、この私のことを一番良く知っていたここの所長は、早速私をこのアメリカ人に推薦してくれたのである。

京都の平安神宮のすぐ近くにある「マリアの家」という学生寮に私が住むようになったのは、それから間もなくの事であった。入寮後は一般の学生とも日課では別で、部屋も特別室にはいり、最初私が思っていたよりもずっと配慮ある扱いをしてくれた。

入寮前の約束では期限は一応3ヵ月となっていたが、この間の一切の費用はこの神父が出してくれた。この人はカトリック(旧教)に所属する米国メリノール宣教会の一神父で、戦前は、中国の大連で布教するかたわら中学校で英語を教えていたそうである。終戦と同時に、日本に赴任し京都大学で英語や英会話を教えながら「マリアの家」という学生寮を監督し、京都の各大学の学生達に日々の生活を通してキリスト教の精神を伝え神の道を実践していた。彼の自己に対する厳しい態度は、「真のキリスト者は如何にあるべきか」ということを私たちに強く印象づけないではおかなかった。わからない言葉と違った習慣など、新しい環境になかなか順応していけない中で、3ヵ月というアフター・ケアの約束期限は以外に早く経過していった。彼はこれから先のことを考えてくれながらどういう希望を持っているかなどを尋ねた、英語でこうしたことを伝えることができなかった為に、私は和英辞典をたよりに必死になって長い手紙を書いた。

「どこかで仕事に就きたいのですが、まだ身体にもあまり自身が持てませんので正直なところ自分でも、これからどんなことをしたらよいか思案しております」というようなことを書いたように思う。ムレット神父は、私の手紙を一字一句丁寧に添削したうえで、私にもう一度大学に復学するように提案してくれた。当時私はすでに27才になっていた。

旧制の大学制度はこのときすっかり新しい学生制度に移行し、これから大学にもう一度復学するにはあまりにも年月が経ち過ぎているように思えた。しかし勉強する事に一種のあこがれみたいなものを感じ、闘病生活で明け暮れた青春をもう一度学問することでやり直してみたいという願いも私の心にあったので、ムレット神父のこの提案に尻込みしながらも従ってみる気持ちになったのである。

ただ生活費や学費をどうするかという問題が残った。当時の私にはアルバイトをする体力もなく、自己を支える経済力は皆無に等しかった。正直にこの事をムレット神父に書いたところ、彼は食費や寮費は言うまでもなく授業料も負担してやるから心配しないで勉強してみてはどうかと薦めてくれた。

この時ほど嬉しいことはなかったが一瞬ためらいも感じた、一人の人間が大学を卒業するまでには莫大なお金がかかる。受けた援助に対して将来自分は返済することができるのか、何度も自問自答してみたが答えは「NO」であった。「ご好意は大変嬉しいのだが、私はしていただいた事に対して、お金をお返しできる自信がない」。金銭問題は、親子や兄弟の仲も引き裂く程に非常なものである。

お金の事はたとえ友人、親子の間でもハッキリとしておかなければならない。そんな気持ちがあったので、私はムレット神父の提案に戸惑いを感じながらまた返事を書いた。日本人同士なら言葉を媒介として簡単に自分の意志を伝えられるのであるが、当時の私はまだ英会話が思うようにできなかったために、こうした複雑な話をすることは容易でなかった。毎日会っていながら、自分の気持ちを伝えられないいらだたしさを感じながら私はせっせと何枚も手紙を書いた。ムレット神父はどんなに忙しいときでも必ず私の英文のあやまりを訂正し、その上で自分の意見を書き添えてくれた。

「学費や生活費のことで心に負担を感じることはない。私が日本にいる目的は、困っている日本の学生達をできるだけ援助する事にある。米国からのbenefactors(基金寄贈者)は私宛にお金を送ってよこし日本の困っている学生のために役立てて欲しいと言ってきている。

だから君だけに特別援助するというのではなくて、何人もの学生が我々のbenefactorsのおかげで学業を終えたり、今も勉強を続けている。アメリカにいるこうした善意の人々は決して日本の学生から将来お金を返してもらおうとは夢にも思ってはいないだろう。

彼らが希望している事があるとすれば、君達が立派な社会人として成長し、人間としても、日本人としても、正しく責任ある生き方をして欲しいということではないだろうか」

ムレット神父の手紙の内容はおよそこういうものだったと思う。20数名いた「マリアの家」学生寮の中で、数人の学生は彼の暖かい庇護の元に勉強していたようだ。両親を故郷に残し京都に出てきている者など、混乱した当時の社会情勢と相俟って個人的にも経済的に苦しい学生がかなりいた時代だったから、彼の援助はまさに旱天の慈雨であった。

ここで「マリアの家」について少し当時を振り返ってみたい。ここはキリスト教でもカトリック(旧教)に属する米国メリノール宣教会が経営する学生寮で、京都美術館や平安神宮などのすぐ近くの閑静なところにあった。敷地660坪、木造2階建の中心にいくつかの家屋や倉庫などが散在していた。小さな池や芝生のあるかなり広い庭もあり、四季の草花を植えた花壇もあった。中心の建物の2階は全部学生たちのベット・ルームで大部屋が6つあった。1階はチャペル(朝夕のお祈りをする場所)、食堂に台所、ムレット神父の事務室、応接間、それにムレット神父の寝室があった。別にスタディ・ホール(自習室)や、レクレイション・ルーム(娯楽室)があって、勉強したり生活をエンジョイするための行届いた配慮もしてあった。

別棟の平屋にインファーマリ(Infirmary)と呼ばれるアフター・ケア施設があり私のような病院を出たての者が5人いた。ここの日課はとても厳しく、ある学生はまるで神学校か軍隊のようだといっていた。冬を除いて年中朝は6時起床、洗面の後朝のお祈りとミサ(礼拝)がありそれから食事。食事はこの神父を囲んで、英語で喋ったりすると食事はどこに入ったのかまったく分からなくなるぐらいだった。

時にはジョーク(冗談)を言われたりするが、最初は何のことかわからず人が笑えば意味はわからなくてもみんなと一緒になって笑ったものだ。朝食後には、モーニング・デュティ(掃除)があった。各人は割当てによって自分の受け持ち区域を掃除する。それが終わると各人自分の時間割によって大学へ行く者、外出する者、レクリェイション・ルームで時間を過ごす者など全く自由であった。

ただ夕方5時20分になるとベルが鳴って、チャペルで夕の祈りが始まる。特別の理由のある者は帰寮できない理由をムレット神父に連絡し、許可を得る習慣になっていたが、それ以外は全員必ずこの時間までに帰っていなければいけない。夕の祈りに続いて夕食、3時頃から風呂が沸いているので入浴したい者は夕食までの自由時間内に入浴をすませておく。夕食後7時から10時まではスタディ・アワー(自由時間)となる。

夕食後からスタディ・アワーまでの僅かな時間も、故郷へ手紙を書いたり洗濯をしたり各人思い思いに活用しなければならなかった。こうみてくると、とても厳しいスケジュールのようだが、当時の学生は実によくこのルールを守っているように私には見えた。このスケジュールの合間に英会話のできない新入者や希望者には週2回レッスンがあり、みんなが英語を話せるようになる訓練を受けた。

ルールの一つに EngIish onIy in the dormitory(案内では英語のみ使用)というのがあった。学生同士もお互いに英語で話をしたが、初めのうちは何か、照れくさいやらまだるっこいやらで、どうしても日本語が知らず知らずの内に出てきたりした。英会話のレッスンと並んでキリスト教の教理研究会も週一回開かれ、全員が出席してムレット神父の英語によるバイブル講義を聴いたり教理に対する質疑応答をした。私も若い学生諸君に習って一生懸命にこの環境に順応していく努力をした。月に一度ミーティングがあり、学生の要望事項や神父からの注意事項などお互いに意見を交換し、この「マリアの家」をより良く発展させるために一致協力をしたものだった。

「ハリウッドのフイルムに出てくる豪華な生活が現実のアメリカ人の家庭生活だと勘違いしてはいけない。アメリカ人の家庭、とくにカトリックの家庭はもっとしっかりした躾をし厳格な教育をしている」というのがこの神父の口癖であった。厳しくはあったが和やかな雰囲気の中で、私たちがアメリカ人のマナーやユーモアのセンスを活きたものとして身につけることが出来たことは大きな収穫だったと言えるだろう。

当時マリアの家にいた学生達が今や日本の幹部クラスとして、英語を活用しながら海外や国内で活躍しているニュースを聴くたびに、ムレット神父の努力が実を結んだのだなあとつくづく思う。当時を振り返ってみて自分がこの人から受けた精神面での影響はいくら過大に評価しても評価しすぎる事はないであろう。現代人は知性と科学を信じすぎて余りにも、傲慢になり過ぎてはいないだろうか。

確かに現代の科学は中世の宗教との戦いを通じて発展し、そのアンチテーゼとして成立してきた。この過去の歴史事実を否定することはできないとしても、それだからといって科学的なものがすべて善であり進歩であると考えることも早計ではなかろうか。科学万能の錦の御旗の下に、人間は自然に挑戦しているが結果は逆に自然を破壊し取り返すしのつかない過誤を犯しつつあるように思えてならない。

こうした傾向と相俟って現代人は精神面で絶対者を否認することによって、自己を絶対者の地位に位置づけるようになった。人間過信は「俺だけが……」という自己過信を生み人のみが絶対的に正しいという排他的エゴイズムの傾向を助長しているようにもみえる。東洋の先哲は「中庸の道」を説き、西欧のデモクラシーは「妥協」によって事を運ぶ術を教えてくれたが、現代の世相は、大は国家の問題から小は個人間のトラブルまで、「自分だけが正しい」という自己絶対視の衝突の結果起ってきている混迷ではないだろうか。

ムレット神父は人間は単に「感覚的な存在」であるだけでなく、「自覚的な生命」であることを実践を通して私たちに教えてくれた唯一人の人である。長い彼との生活を通じて、私は謙遜な心、寛大な心、自分を顧みる態度、祈る心、瞑想する心、など多くのことを学んだ。ややもすると傲慢になり、不平の出そうな日々の生活の中で、静かに自分を顧みながら感謝の心を抱いて一日一日を送れることは、ムレット神父が私に与えてくれた大きなプレゼントだった。

私がムレット神父に巡り逢い、彼と生活するようになってから、34年の歳月経過した。 ムレット神父は日本を去って、アメリカ・ニューヨークのメリノール本部養老院で静かにその余生を送っていたが、1971年の暮れに静かにこの世を去った。

かつて私が住んでいた「マリアの家」も、ムレット神父がアメリカに帰る一年前ぐらいに起こった学園紛争や学生の過激な運動のあおりを受けて、寮内で造反が起こり閉鎖されてしまった。「マリアの家」があった土地に数軒の分譲住宅とホテルの駐車場が出来ており、かつて若い学生諸君の魂に清新の気を吹き込んだ痕跡は全くない。しかしムレット神父が日本の青年の心の中にまいた種子は、私の中だけではなくて、「マリヤの家」で生活したすべての学生諸君の中にもきっと生き続けているに違いない。

心ない一部の学生の暴挙が、この米人宣教師の善意の灯まで踏みにじり、日本に骨を埋めることを決意し日本と日本人を愛し続けたこの老神父を本国に追い返す結果になったことは悲しい……。

私は自分のささやかな体験を通して、「人と人の出会い」の持つ意味の重要さをひしひしと感じている。私が教員の一人として大学に身をおく事ができるのも、ムレット神父という米国宣教師との出会いがあったからである。出会いは人の運命を開花させることもできるし、また沈めてしまう非常な可能性も持っている。しかしその別れ路は紙一重なのだ。皆さんもこうした経験をしたことがあると思うが、出会いのチャンスを活かす為に忘れてはならない二つの事がある。

一つは相手に接していく気持と態度、もう一つは自分を日頃から訓練し何かできる実力を養成しておくことである。

「自己に対しては厳しく他人に対しては寛大に」というのがムレット神父の自己を律する態度であったが、相手に誠実に接していく気持ちはどんな時代になっても大事なのではないだろうか。誠実から信用が生まれてくる。また現代は能力を問われている時代でもある安易なことから実力は生まれてこない。自己に対しては厳しさを持って努力精進することが必要であろう。こうしたならば、出会いのチャンスを必ず活かすことができると思う。これは、私がムレット神父との生活を通じて教えられたことである。

私達がこのキャンパスで共に勉強し学んでいるのも、皆さん方と私どもの出会いである。授業やクラブ活動を通じて直接的・間接的に接するようになった私達はこの機会をどのように活用したらよいのだろうか、通信教育部に在籍している人を含めて若い学生諸君は、勿論、多忙の中でも一生懸命できるだけたくさんの事を学ぼうとしているに違いない。

こうした皆さんの中から、誰かが自分の運命を開くような出会いを見つけて欲しいものだと望んでいる。

最後にきわめて陳腐だが、「人との出会いを大切にしなさい」という言葉を、私の結びにしておきたい。

(筆者 外国語学部教授 英会話)

 


  
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2001-12-27

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